すぐわからないことのおたのしみ。
少し前の話題になりますが、Twitterで共有してくれた方がおりまして、SNSで少し話題に昇ったトピックがあります。
宝塚の座付き演出家の上田久美子さんがおそらく京都新聞の7月11日?の夕刊に寄稿されてます。京都新聞
※現代のことばは1週間限定で携帯サイトにて有料で見れるようですが、日程的にもサイトとしても、現在は見れないかもしれません…
内容としてはある演出家との雑談から、「共感」が蔓延している昨今のエンターティメント作品づくりについてウエクミせんせい流にユーモアと皮肉を持って綴っている内容です。「茶の湯」の「暁の茶事」を持ち出すのも先生の日本文化への造詣の深さとセンスを感じさせますね。
上田久美子さんは、以前から「ハリウッド的な勧善懲悪のドラマが嫌い」というような主旨の発言をしておりまして、ご自身の作劇も悲劇性が強いもの、「敗者のものがたり」が中心。
最新作、芝居『神々の土地』、ショー『BADDY(バッディ)-悪党(ヤツ)は月からやって来る-』ともに、そんな「単純な共感」とは一線を画す作品でした。
しばらくたってそれを受けて。
「共感できる芝居」というのは、要は「気持ちよく見れちゃうお芝居」ですよね。
— ナギ ナリコ@7月やるしかない。 (@nagi_narico) 2018年7月16日
わたしエンタメ、商業演劇好きですが、「わからないこと」や「簡単にいかない複雑なこと」を提示され、それをじぶんの中にためたり、紐解くのが好きなので、「単純に気持ちイイ、楽しい」「だけ」の芝居に興味ないです…
表題通りですけれど、「わからない」って楽しいのですよ。
「わからない」時の頭にはてな??が生まれる感じ、頭がパンパンな感じって少しツライ気もする。
でも、それはこうかな?と自分でいろいろと思いを馳せたり、果てはこうかな?と思いだし何かと関連付けてみたり。そうするとじぶんのレベルが上がった感じや人としてのキャパが増えた気もする。はた、と頭の中にひらめき、開眼したような感覚もエキサイティングです。
もっと「わからないレベル」が高いと、「本当本当意味なんて全然わからない!!何…?!」みたいな作品も世の中には沢山ある。演劇で言うと現代劇の劇作家等顕著ですね。
以前、ハロルド・ピンターの戯曲をはじめて読んで、芝居を観に行ったとき、本当わたしのキャパシティでは意味が分からなくて、もう観劇が終わっても、頭に???が沢山沢山出来ました。
だからなんだか、消化不良な作品の印象が自分ではあったんですが、その芝居に出演していた役者さんがこんなことを言っていました。
「(芝居が難しいという声を受けて)わからないをつまらないことにしないで、ただ目の前の役者の演技や、照明、美術等、舞台の機微を追う芝居の楽しみ方もある」(意訳)と。
その時すごく目の前が啓けた感じがあったんですよね。
芝居の見方は「共感」だけではない。もちろん「楽しさ」だけが芝居で感じられる感情でもない。
芝居を通じて、じぶんを見つめたり、じぶんでは絶対生きられないような人生を垣間見たり、全く共感のかけら出てこない登場人物たちの描写に「戦慄」したり…単純に恐ろしいな、綺麗だな、気持ち悪いな、でもいいと思うんですよ。
わたし芝居見て人間模様が凄すぎて、ちょっと死にたくなったことあるんですよね…(苦笑)それ位衝撃を受けるような観劇体験も時にはあります。
「タカラヅカ」はエンターティメント色の強い楽しい作品が多いですけれど、そんななかウエクミせんせいの「簡単に気持ち良くならない」作劇は際立って印象的です。
そして、そのような作品は「楽しいエンタメ」とは別の文脈で、しみじみと、趣深かったり、心に刺さるものだったりするんですよね。
たぶんエンタメ、ハッピーエンドってバッドエンドや簡単に割り切れない作品より結末の種類が少ないんですよ。だから、ともすれば単純明快になってしまう。
「よくわからない」作品は、「よくわかる」作品より、観客に訴えかける感情の種類が多いのだと思います。
観客に「何か」を思い起こさせるには、作品の中に「空間」「エアーポケット」がどうしても必要で、「よくわからない」作品にはそんな部分がたくさんあるからかもしれません。
そこをじぶんなりに埋めていくのが「よくわからない」のおたのしみ。
埋めていった先にはどんなじぶんが知れるか、どんな景色が見えるのか、それも楽しみなのです。
これからも作品の「すぐわからないこと」をたのしみに。
ナギナリコがお届けしました。